参
穢れることを知らない真っ白な雪。
まるでその雪たちが全ての音を吸収しているかのように、邸の中は静かだった。
「お出かけですか、様。」
「はい、ちょっと柳の御所まで。」
丁度、馬の世話をしていた舎人に声をかけられる。
送っていきましょうか?と申し出てくれるが、は首を横に振った。
この泰衡の邸から彼の仕事場である柳の御所まではさほど離れては居ない。
確かに、昨日降り積もった雪のせいで足場は多少悪くなってはいるが。
「それじゃあ、行ってきます。」
「お気をつけて。」
「・・・それで、殿は何故そんなにもびしょ濡れでここに立っておられるのか・・・」
「・・・泰衡さんに話したいことがあって・・・」
「何故濡れる必要がある?」
「・・・雪に足をとられて、転んだんです・・・」
雪なんて年に1、2回降れば凄いね、なんて言える都会に住んでいて。
ましてこんなに積もった雪を見ることなんて、小さい頃スキーに行ったとき以来で。
さらに着る機会なんて無いに等しい着物が普段着のこの時代。
不可抗力としか言いようが無いだろう。
「馬を使うなどと考えなかったのか?」
「・・・私、馬に乗ったことなくて・・・」
はぁ、と頭上から溜め息が零れる。
眉間の皺、よけいに増やしちゃったかな・・・なんてが考えていると強い力で腕を引かれた。
一言もしゃべらない泰衡に半ば引きずられるように廊下を歩く。
より前を歩く泰衡は背中しか見えず、怒っているのか呆れているのかそれさえもわからない。
「大人しく待っていろ」
放り投げるようにして連れて行かれた部屋は書物やら色んなものが置いてある。
ヒュッ、と泰衡の上着が翻されて空気が切れる音がする。
「あっ、泰衡さん・・・」
急いでは振り返る。
しかし、また顔を見る暇もなく扉が閉まった。
「あれ・・・絶対怒ってるよなぁ・・・。どうしよう・・・」
一人静まり返った部屋の中に火鉢の炭が燃える音だけが響いた。
部屋の中には一つの机がある。
その上には大量の手紙らしきものと、周りには沢山の書物が積み重なっている。
なんとなく、ここは泰衡の部屋だと思った。
が泰衡に助けられてから二週間余り。
彼がの居る自らの邸に滞在することはとても少なかった。
それも決まって、夕食が終わったあとの遅い時間だった。
女房達に尋ねても「お仕事がお忙しいから・・・」と、それがあたり前のような口調で。
この書物や手紙で何をするのかはわからないけど・・・
机の上に積み重なっているそれが尋常じゃない量だという事はにでも分かる。
それでも体調が戻るまでの数日間、泰衡は眉間に皺を寄せながらもときどきの様子を見に来ていていた。
特にしゃべることもなくただ様子を見に来ている、というだけだったが。
もしかしたら彼の眉間の皺と仏頂面は日常的なのかもしれない、そして案外彼は優しいのかもしれないと気がついたのはつい昨日だった。
「過労死とかこの時代にもあるのかな・・・」
「・・・何をしている・・・」
「あっ、泰衡さ・・・」
「部屋が濡れる、早く着替えて来い。」
そう言って、いつのまにか部屋に入ってきていた泰衡はに手ぬぐいと新しい着物を押し付ける。
その代わりが今まで持っていた書物は既に彼の手の中だ。
視界に入った書物を手にとってパラパラと中身を見てみたが・・・。
時空跳躍なんてことがあるのだから、書物が平仮名で書いてあるなんてこともあってもいいかもしれない。
しかし、少し黄ばんだ和紙につづられている文字はミミズがのたくっているような素晴らしい達筆だった。
「泰衡さん、この文字読めますか?」
「・・・馬鹿にしているのか?」
「いえ、滅相も無い!!」
「ならさっさと着替えろ。」
そう言って、泰衡は再び部屋を出て行った。
人と話すという事はあまり得意では無いが、さすがにこの沈黙は気まずい。
と、思っているのは恐らくだけなのだろうが。
「・・・あの、泰衡さん・・・・」
「・・・・」
「・・・その、お話してもよいでしょうか・・・」
「用件は何だ?」
部屋に戻ってくるなり泰衡は自らの机の上に座って、ひたすら何かを書いている。
その隣で、小さくなって座っているを気にすることもなく。
どうしてこうまでも愛想が悪いのだろうか・・・。
「私に仕事をくれませんか・・・?」
「お前は俺の客人だ。客人を働かせる者がどこにいる?」
「でも私、いつ元の世界に戻れるかなんてわからないんですよ。もしかしたら一生ここで過ごしても可笑しくないじゃないですか・・・!」
「なら、お前に何が出来る?女房の仕事でもやってみるか?」
そう言って皮肉気に笑った泰衡には返す言葉が見つからなかった。
女房・・・要するに人の世話をしたり料理をしたり掃除をしたりすればいいのだろうか・・・?
「・・・・女房は私には無理です・・・」
「ふっ、それでは嫁の貰い手がないな・・・」
「・・・・流石にそこまで言われると傷つきますよ・・・」
相変わらず背中を向けたままの泰衡を思いっきり睨みつけてみるが、全く効果はない。
はぁ、と溜め息をついた泰衡に言い返してやりたい衝動にかられる。
しかしこれ以上彼に勝てる自信が無いのでやめることにした。
「それで・・・?」
「・・・えっ・・・?」
「お前が言いたいのはそんなことじゃないだろう。」
「・・・なんで・・・」
なんでわかったの?
と言いたかった言葉は喉の奥に消えていく。
ようやく机から振り返った泰衡の視線があまりにも真剣だったから。
その漆黒の瞳に何もかもを見透かされていたような気がしたから。
「言いたくないのなら言わなくていい。」
「・・・泰衡さん・・・?」
「お前が決めることだ、。」
「・・・大黒天って、知っていますか?」
あの時から、今まで。
ずっと頭の隅に引っかかっていた名前を口にした。
あの日会った時からまだ数週間。
信じていいのかまだ分からない人の前で、私は自分の弱いところをさらけ出した。
070502